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東京高等裁判所 昭和56年(う)1024号 判決

控訴人 弁護人

被告人 中村壽久

弁護人 関野昭治

検察官 板山隆重

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人関野昭治が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事板山隆重が提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一事実誤認の主張について

論旨は、原判示罪となるべき事実第一ないし第四のすべてについて事実誤認を主張しているので、原審記録を調査し当審における事実取調の結果をも併せて以下検討することとする。

まず、論旨は、原判示罪となるべき事実第一の事実について、要するに、被告人は、株式会社北商(以下北商という)の代表取締役として、昭和五四年一二月二八日当時北商が高値を見込んで大量に買付けていた数の子が値崩れしたことによる、いわゆる数の子商戦の失敗から経営危機に陥つたことに関し、その救済再建問題についての三菱商事株式会社(以下三菱商事という)水産部第三課長國武敬との交渉を終えて帰宅した午後九時ころ、北商の専務取締役中村驥と常務取締役福島勇を自宅に呼び、右交渉の結果を伝えながら善後策を検討し、被告人が、三菱商事は当座北商を救済しても再建はしてくれないだろうから、北商の手形の決済が一応終る昭和五五年四、五月ころまで自分で北商の相当の現金を保有して姿を隠し、頃合いをみながら北商が三菱商事と有利な条件の和解ができた段階で帰つてくる旨の提案をして中村驥らの同意を得、その旨決定し、さらに翌一二月二九日午後五時ころ北商本店社長室に経理部長早津迂、同副部長広瀬金作及び総務部係長小林和光を呼んで協力を求め、昭和五五年一月三日中村驥に早津らが了解したことを伝えて右決定を再確認したうえ、北商の再建存続を図るため、本件一五億二〇〇〇万円を隠匿所持したものであり、しかも被告人は、渡欧後も北商幹部らと緊密な連絡をとりながら事態の推移に応じ自発的に本件金員の大部分を北商の破産管財人に返還しているのであつて、これによつても被告人に本件金員を不法に領得する意思がなかつたことは明らかであるところ、被告人は、前記関係者との打合せに従い、また北商関係者が共犯者として追及されるのを恐れて、捜査段階において、自己の単独犯行であることを強調し、ことさら虚偽の事実を述べたり、捜査官の誘導に迎合して矛盾に満ちた不合理な供述をし、原審公判廷においても結局真実を述べることができなかつたのであつて、右各供述は全く信用できないにもかかわらず、原判決はこれらに依拠して前記一五億二〇〇〇万円全額について業務上横領の事実を認定した点で判決に影響を及ぼすべき事実誤認がある。というのである。

そこで検討すると、関係証拠によれば、原判示の犯行に至る経緯第一ないし第五、罪となるべき事実第一掲記の事態の推移に関する事実はこれを肯認することができ、さらに、被告人は、北商の代表取締役として北商の資産の管理、現金の出納保管その他一切の業務に従事していたが、その関与のし方は、北商が従業員約九五名、資本金二億円の水産業界における中堅企業であつたとはいえ、個人商店から成長発展した被告人の同族会社であつたゝめ、株式会社として必ずしも正常な組織的活動が行われていたとはいえず、取締役会なども碌々開催されず、総務、経理部門を掌握する被告人と専務取締役として営業部門を総括する弟の中村驥との協議に従つて専ら運営され、しかも後記のように被告人のもとで経理上自己の個人的資産と北商資産とを明確に区別しない公私混淆が一部行われていて、経理部長の早津迂ら七名の課員を要する経理部が設けられ経理事務の担当は定められてはいたものの現金、預金の操作を含む資産運営や資金繰り等基本的なものは被告人が直接行つてその指示に従うのみのことが多かつたこと、被告人は、昭和五四年一二月二九日北商本店社長室において、北商の当座預金の残高等を調べ、昭和五五年一月中旬ころまでに北商が手形を決済するのに必要な金額を差引けば残高は一五億円程度であることを確認し、直ちに経理部副部長広瀬金作に対し銀行に年末協力預金を行う必要があるなどと名目を偽つて北商振出の額面金額合計一五億円の小切手一一通を作成させ、これを原判示の株式会社東京相互銀行古川橋支店(以下東京相銀古川橋支店と略称する)に振込んで通知預金にするとともに昭和五五年一月四日午後一時にその全額を現金で払戻せるよう手配させ、また広瀬副部長から品川信用組合に対する協力預金分として現金五〇〇〇万円を預つたが、同組合から受け取りに来なかつたので預金することをやめ、翌三〇日このうち一〇〇〇万円を、取引先へのリベート等北商のため使用する目的で借り受けていた社長仮払金の精算分として小林係長に交付したが、なおうち二〇〇〇万円を北商の資金繰りのために被告人の個人名義で融資を受けた西武信用金庫小平支店に返済することゝして、その残額合計一五億二〇〇〇万円を隠匿所持することを考え、その方法としてうち九億五〇〇〇万円を母中村たつ子に預けて被告人の自宅天井裏に保管させ、うち三億四〇〇〇万円を昭和五二年ころから親密な関係にあつた高橋尚子に預けて三億円で無記名債権を買わせてその利息を自分の欧州での生活費に充てるなどのことを予定し、うち二億二〇〇〇万円を昭和四九年ころから親密な関係にあつて一女を設けている壬生順子に預けて二億円で無記名債権を買わせてその利息を同女らの生活費に充てさせ、二〇〇〇万円を前記銀行債務の返済に充てさせることとし、またうち八〇〇万円を小林係長に交付して被告人の株式会社三菱銀行三鷹支店からの残債務五〇〇万円の返済や、三洋証券株式会社大井支店(以下三洋証券大井支店という)に対する株式取引の清算分の費用に充てさせ(これが業務上横領罪に該ることについては後述のとおり)、さらにうち二二〇〇万円を自ら欧州への渡航滞在費用として所持する計画を立て、まず一月二日母方に行き同女に対し前記四〇〇〇万円中三〇〇〇万円を交付して右隠匿方を依頼しその承諾を得られたところから前記計画の実行に移り、同月四日午後一時過ぎころ東京相銀古川橋支店から現金一五億円を引き出し知人にレンタカーを運転させ前記三名に前示額の金員を交付してその隠匿所持を依頼するなどしたのち北商関係者に無断で渡欧して身を隠し、なお渡航滞在費用等として合計約三六〇〇万円を費消したことを認めることができる。所論は、前記のとおり、本件行為は被告人が他の二名の取締役と協議し、三菱商事に対抗して北商の利益を図るために被告人において本件一五億二〇〇〇万円を隠匿所持する旨を決定したうえでなされたものであると主張し、当審証人福島勇、同小林和光及び被告人も当審公判廷において所論に添う供述をするのであるが、北商の有利に利用する方法として述べるところは、三菱商事との交渉の際隠匿金を差し出すことを条件に援助の拡大を図るとか解散時の退職金に充てるとかなどというだけで具体性に乏しく、また援助の条件として粉飾決算の無い健全な経理状態を要求している三菱商事に一五億円もの隠匿財産のあることを交渉の材料に持ち出すことの不合理さを考えても両取締役と被告人の供述するような協議やまして決定があつたとは考えられないばかりでなく、右中村の証言や被告人の供述によれば右の決定のあつたことを告げられこれを了解したとされる早津迂は当審公判廷において被告人から所論のような話をされたことはない旨証言し、さらに早津は後記のとおり昭和五五年一月従業員のために金員を隠匿するようなことをしないでくれと被告人をとめていること、早津はもとより被告人ら本件関係者は、被告人の逮捕の前後を含む捜査の全過程において右の協議や決定があつたことを窺わせる供述を全くなしておらず、いずれも被告人が北商幹部の了解を得ることなく独断で本件一五億二〇〇〇万円を隠匿したことを前提に供述しており、そのことは原審公判廷の証言においても変わるところはなく、それらの供述内容は詳細具体的であつて所論のように予め口裏を合わせてことさら虚偽の事実を述べたと窺わせるような不合理な点は全く看取されず、しかも被告人は原審において妻や中村驥が共犯者として追及されるのを防ぐためにことさら虚偽の事実を述べたとして捜査段階の自己の供述の真実性を否定しながら右決定には一言もふれていないことに加え、被告人が逃走してから北商の破産管財人が昭和五五年三月二七日被告人を捜査当局に告訴するまでの間に、中村驥が右管財人と交渉して同月二〇日までに被告人が全額返済すれば告訴しないとする内容の同月一七日付念書を受けた際にも、北商関係者において右決定の存在を前提に同管財人に告訴の取止めを求めることもなかつたことなどに照らすと、被告人らの所論に添う協議や決定があつたとの供述は、いずれも不合理、不自然であつて、到底信用できない。もつとも、関係証拠によれば、被告人は、昭和五四年一二月三〇日年末挨拶に来た子会社の大阪北商の藤井明専務取締役に北商が整理されそうなので身を隠したいと言つたり、昭和五五年一月一日年始に来た子会社の株式会社和水の代表取締役中山和彦に従業員のために金員を隠匿するなどと話したりしたことは認められるが、いずれもその場で反対されたり、これを伝え聞いた早津経理部長にそのようなことはやめるよう説得されたりしており、かつ被告人の右の話の内容は極めて漠然としたものであり、もとより所論のような協議や決定のあつたことを窺わせるに足るものとすることはできない。また所論は、被告人が昭和五四年一二月二八日夜自宅で中村驥ら両取締役と会つたことは、当日被告人が國武課長から歳暮として贈つたのに返されたロンジン婦人腕時計を一個づつ右両名に交付していたことからも明らかである旨主張するが、右両名が右のような時計を所持していても、その入手経緯が客観的に明らかとなつているわけではないから、直ちに所論のような会談のあつた証左となるものでないばかりでなく、弁護人が当審において提出した昭和五六年一〇月一四日付御修理承り票によれば、福島勇の妻美加子が同日三越デパートにロンジン婦人腕時計の修理を依頼しており、同票の備考欄に「昭和五四年一二月三一日にブレスカツト及び機械調整のためお預り、……とのこと」旨の記載のあることが認められるものの、右記事は右時計の修理を頼んだ福島美加子が述べたことを係員が記載したに過ぎないものとみられ、この記事から所論の推論をすることのできないこともいうまでもない。以上のとおりであるから本件につき被告人が事前に中村驥ら北商役員と本件金員の隠匿所持を協議決定したとの所論は採用することはできない。

そこで、次に本件一五億二〇〇〇万円を隠匿所持するについての被告人の意図について検討すると、この点に関する被告人の捜査段階における供述は、要するに、被告人は、北商の経営的な危機を十分認識していたものの、中村驥から三菱商事とのそれまでの取引や協議について詳細かつ正確な報告を受けていなかつたこともあつて、三菱商事が北商と予め結んでいたジヨイント契約に基づき在庫品を高値で買取る等好条件で北商を援助してくれるものと考えて國武課長との交渉に臨んだところ、同人から、北商の在庫は三菱商事とのジヨイント契約に基づく協議を経ることなく北商が独自に買付けたものであり、かつ予想以上の莫大な数量であるため在庫金融の形での資金援助の方法をとるほか援助の途はないとされ、今後三菱商事は、数の子を含む北商の全在庫を安値の時価で逐次買上げ、その代金を北商の支払手形の決済資金に充てることとするが、北商には八〇ないし九〇億円の評価損がでること、昭和五五年早々に三菱商事から社員を派遣して北商の経理、在庫等を監査し、これに基づく北商の再建案を検討する間、北商の営業を一時停止すること、北商の社屋その他の資産及び人員を整理して減量経営にすること、この援助の条件として北商の経理に粉飾がなく、被告人に不正な資産の流用がないことなどを内容とする北商にとつて厳しい援助案を示され、その場はこれを受諾して帰宅したものの、改めて考えてみると、三菱商事は水産業界や世間に対する自社の体面、信用を保つため北商を援助する態勢をとりはするものの、適当な時期にこれを止め、事実上北商を休業状態に追い込むのではないかと危惧を抱き、仮に三菱商事の援助で北商が存続することになつたとしても三菱商事から派遣された社員の監査によつて過去四年間に亘る粉飾決算の事実が明らかとなり、被告人に関する約三億四〇〇〇万円の北商内部の不明朗な経理も発覚し、被告人は、その直接かつ最高の責任者として非難、追及を受けるうえ、右社員らの指示のままに動く名ばかりの社長という立場に甘んぜざるを得ないであろうことを予想して耐えられない気持になり、他方、北商が急成長したのは中村驥の才覚に負うところが大きいとして同人に感謝しながらも、同人がかねて営業部門を殆どひとりで掌握し、昭和四八年のいわゆるオイルシヨツク後の困難な状況に際しても現物取引を中心とする堅実な減量経営で乗り切るべきだとする被告人の意向を押し切るような形で数の子のような際物取引や先物取引を中心とする思惑的商法を行い、それが、昭和五一年以降北商に多大な欠損を生じた原因を作つたものとして快く思わないところがあつたうえ、昭和五四年の前示数の子商戦においては、同人が三菱商事との事前協議を十分尽さず、独断専行的に大量の数の子を思惑で買付けて結局三菱商事からその買取りを拒まれる事態を招き、しかもこの間の経緯について被告人に対し前記のように適切な報告を行つていなかつたばかりか、北商の経営が危殆に瀕しても三菱商事を全面的に信頼して進んでその援助を受けようとするばかりで被告人の前記危惧の念や苦悩を察しようともしないことについて、同人に対する不信、憤懣の念を強めて経営の意欲を失い、この際は北商の社長の地位を投げ出し、その代りに三菱商事から社員が派遣されて北商の経理の監査を始める昭和五五年一月五日より前のいまだ北商の資金を自由に左右できる間に、できるだけ多くの金員を横領し、将来新設する会社の資金に五億円程度、北商が将来事実上倒産又は整理縮少した際退職する北商社員の慰労金として五億円、三菱商事が北商の一般債権者に対する返済を終えて自社の債権の整理にかかるころ北商社員を煽動して労働組合を結成させてストライキをやらせるなど同商事にいやがらせをする費用として一〇〇〇万円、その余は前記のように自己の滞欧費用や親密な女性の生活費等に充てることとして本件一五億二〇〇〇万円を隠匿所持し、一時欧州に渡つて事件のほとぼりが冷めるまで身を潜めたまま暮そうと思つて本件犯行に及んだというものであり、これらは、被告人が昭和五五年七月三日以降の検察官面前調書においてほぼ一貫して述べるところであり、捜査官による強制等その任意性を疑わせる証拠もない。所論は、前記の決定がなされたことを前提にそれに触れることのない被告人の捜査段階における供述の信用性を全面的に争うのであるが、前示のようにその前提となる同決定が認められないことからしても所論は採用することはできない。しかし、被告人は、昭和五五年一月四日渡欧後五か月余りの逃走生活を経て帰国した同年六月二三日千葉県成田市の新東京国際空港内で逮捕されて引き続き勾留され、しかも本件が被告人の業務上横領事件としてマスコミによつて喧伝され社会の耳目を集めていたことを既に知つていて、捜査段階においては、自分の罪の重大さ、債権者、家族等に対する責任等を感じていたものと推認されるから、前記供述調書において、犯行当時の心境をすべてありのまま正確に述べていたかについてはなお慎重な検討を要するものと思われる。そして、被告人は、本件一五億二〇〇〇万円のうちから自己の個人的債務を弁済したり、欧州への渡航滞在費用を支出したり、右金員の大部分を個人的関係者にその保管を任せ、また事件後に壬生順子が自分で保管している一五〇〇万円は生活費として貰いたいと希望したのを簡単に了承したことからしても、被告人が本件当時隠匿金額の少なくとも一部を自己又は第三者のために費消する意思を有していたことは十分認められるところであるが、被告人が本件一五億円の隠匿を決意したのは、前記のとおり國武課長から厳しい援助案を示されて衝撃を受けた直後であり、しかも正月休み明けの昭和五五年一月五日より前に一五億円もの巨額な現金を搬出しなければならないという切迫した状況にあつたのであるから、被告人としては、北商資金を自由にできるうちにとにかく北商から右金員を引き出しておくことを目論んでいたとは認めうるものの、その使途について前記供述調書のようにすべて被告人のために費消し、北商のためには一切使用しないとまで決めていたかについては、たとえ当夜一段と中村驥に対する不満や悪感情を高め、北商の経営に熱意を失つていたとしても、北商の成長発展に永年寄与してき、北商への愛着を完全に失つていたとはみられない被告人の性情に照らすと、疑問の余地がある。被告人が、本件についての最後のものである昭和五五年七月一三日付検察官面前調書において、三菱商事による北商再建の可能性は極めて小さいとの見通しを持ちながらも、中村驥のいうように三菱商事の援助で北商が再建したら本件金員を返すつもりであつた旨述べていることは被告人自身本件金員全額を短時間のうちに費消してしまう意図は当初からなかつたのであり、その後の推移に応じ、被告人が右のような行動に出ることは十分考えられることからすると、その信用性を肯定しえないわけのものでもない。さらに、被告人は捜査当初本件犯行を北商を守るためにやつたと述べていたが、のちに前記のようにその供述を改め、原審及び当審公判廷において再度その供述を改め、新会社設立は現実的でなく、その意思はなかつた、三菱商事から北商を守り有利な条件で和解して北商を再建させるために本件一五億二〇〇〇万円を隠匿したなどと述べているのも、自己の刑責を免れようとして自己に有利な面のみを強調した嫌があり、十分具体的な内容をもつものではないとはいえ、前記のような観点に照らすと、その信用性を全面的に否定するのも相当とは認められない。また、被告人が、本件犯行直前に作成した書面の内容をみても、國武課長宛の書簡は「三菱商事が北商を整理倒産に向わせるようにみえるので金を持つて姿を隠すが再建してくれるのであれば出社して金を返す」旨であり、社員宛の書簡は「自分がいなければ三菱商事による北商の整理はやりにくくなるので、北商は存続に傾くので専務を中心に団結して三菱商事について行つてほしい、仮に整理になつても退職金も用意してある」旨であり、預り証は一五億五〇〇〇万円を新規事業資金として預つたというものであり、自己の立場を美化したとみられる点を除いてこれを率直にみれば、前記各証拠から窺われる被告人の本件犯行当時の心境と特に矛盾するものとはみられない。即ち、これらを総合して考えると、本件犯行当時の被告人としては、三菱商事から社員が北商に派遣されて来るまでに本件一五億二〇〇〇万円を隠匿することが当面の急務であり、少なくともその一部を自己や第三者のために使用する意思はあつたものの、その余については事後の推移を踏まえ、新会社の設立等被告人のためにのみ使用するか、或いは再建された北商に返還するなど北商のためにも使用するかといつた思いが浮動的に混在していたのであつて、ただ本件当時北商は倒産に向うとの見込みに立つており、その後現に破産宣告を受けるに至つているから捜査段階においては倒産を前提とする使途について主として述べていたものとみるのが事の真相に合致するものと認められる。そして確かに被告人は、北商が昭和五五年一月三一日倒産したことをその直後に知り、破産管財人や中村驥ら関係者から本件金員を速かに返還するよう再三説得されても素直にこれに応じず、自分に対する告訴、逮捕状の発付、同行していた高橋尚子の離反といつた他律的要因から同年六月までかかつて順次その大部分を返還するに至つているが、しかし被告人は、北商倒産後も中村驥ら北商関係者との連絡を保つていてその所在を完全に暗ましたことはなく、しかも被告人の費消金額は前記のとおり約三六〇〇万円と隠匿した金額に比べれば少額にとどまつており、このことは北商のためにも費消したいとの被告人の前示意思を裏付けるものとも認められ、なお被告人が前記のように本件金員の返還を渋つたことについては、横領犯人として追及されたため、本件金員の返還を条件に何とか自分の北商の社長としての立場、名誉をも擁護したいとの気持もあつたとみられ、そうとすると被告人の本件後の言動が本件当時の被告人の心境を前記のように認める妨げとなるものではない。

以上のような本件金員の隠匿行為時の被告人の認識や意図を前提に横領行為の成否についてさらに検討すると、所論は本件について被告人に不法領得の意思がなかつたことを主張するものであるが、業務上横領罪の成立に必要な不法領得の意思とは、業務上他人の物を占有する者が委託の任務に背いて、その物につき権限がないのに、所有者でなければできないような処分をする意思をいい(昭和二四年三月八日最高裁判所第三小法廷判決、刑集三巻三号二七六頁参照)、占有者が委託の任務に背いて無権限で物を処分した場合には、右の意思があつたと解されるのが通常である。しかしながら、占有者が右のような処分をした場合であつても、それが専ら所有者自身のためにしたものと認められるときは、所有者でなければできないような処分をしたという前記の要件を欠き、不法領得の意思がないこととなるので、業務上横領罪は、成立しない(昭和二八年一二月二五日最高裁判所第二小法廷判決、刑集七巻一三号二七二一頁参照)。ことに、被告人の場合には、北商の代表取締役として、資金面を担当し、自ら現金、預金を操作してこれを外形上個人所有の物のように保管しながら、実質は北商のために保管するという例も皆無ではなかつたと認められるのであるから、本件の一五億二〇〇〇万円についても、隠匿という特異な保管形態から直ちに被告人の不法領得の意思を推認することなく、いがなる意図のもとでこれを隠匿するに至つたかの動機にまで立ちいつて審究することが必要であり、その意味において右の意図のいかんは本件業務上横領罪の成否を決する最大の争点といつてさしつかえない。そこで、この点につき前記の事実経過に即して検討を進めると、被告人が本件一五億二〇〇〇万円を隠匿所持することの意思を最終的に固めこれを外部に表明したとみられる、昭和五五年一月四日午後一時過ぎに東京相銀古川橋支店から一五億円の現金の払戻しを受けた時点においては、被告人は、本件一五億二〇〇〇万円の一部については、これを滞欧中の生活費等自己又は第三者のために費消する決意を固めていたものの、その余については、新会社の設立等の自己の用途に充てるか、あるいは、北商に返還する等北商のために使用するかをいまだ決定しておらず、事態の推移に応じて自らの判断によつて使途を決定しようという浮動的な意思状態にあつたと認められる。また、被告人は、右金員をそれぞれの費消目的ごとに客観的に区別して保管することなく、しかも、個人所有の金員と全く同様に専ら占有者たる被告人の意思によつて自由に処分することのできるような形態で隠匿し、自己の支配下に置いたと認められる、そうしてみると、被告人が、自己又は第三者のために費消する決意を確定的に固めておらず、北商のために使用する余地のあつた部分の金員についても、すくなくとも未必的にはこれを自己のために費消する意思があつたことに帰するから、これを専ら所有者たる北商自身のために保管する意思で所持したということはできず、また、このような意思のもとで北商の金員を手許に隠匿し、専ら被告人の意思によつて自由に処分することのできるような形において個人的な支配下に置いたことは、北商の代表取締役たる被告人の任務に反し、権限を逸脱した行為であるというほかはないから、前示本件一五億二〇〇〇万円を隠匿する意思を表明した時点において、その全額について被告人に不法領得の意思があつたものというべきである。」そうとすると、原判決がその挙示する証拠により、罪となるべき事実第一の事実として本件一五億二〇〇〇万円につき一括して業務上横領の事実を認定したのは相当であり事実誤認をいう所論は到底採用することはできない。

次に論旨は、原判示罪となるべぎ事実第二ないし第四の事実について、要するに、被告人は、従来北商の取引先に対するリベート等を社長貸付金又は社長仮払金としていたが、国税局によりこれが社長である被告人に対する認定賞与として取り扱われたところから、中村驥ら北商幹部の了解を得たうえ、昭和五二年五月に国税局から北商へ還付された一億七〇〇万円を運用資金として株式等に投資しその利益を前記リベート等の支払いに充てることとし、右資金の運用のために東京相銀古川橋支店の被告人名義の普通預金口座や三洋証券大井支店の被告人名義の顧客口座を利用していたものであつて、このことは昭和五二年五月以降社長貸付金が増加しておらず、社長仮払金は昭和五四年一二月には残高のなくなつたことからも明らかであるところ、ロイヤル南麻布ガーデンマンシヨン四〇三号室の売却代金五〇二〇万円全額が前記普通預金口座に入金されていることからも窺われるように、被告人は同マンシヨンを北商のために購入したものであり、従つて同マンシヨン購入のため東京相銀古川橋支店から被告人名義で四〇〇〇万円の融資を受けていてもその実質は北商の債務であるから、原判示罪となるべき事実第二記載の被告人の所為は何ら業務上横領には該当せず、少くとも被告人には業務上横領の故意はなかつたのであり、仮に右融資が被告人の債務であつたとしても、被告人は昭和五三年一〇月二八日に前記マンシヨンの売却代金中一〇〇〇万円を実質上北商の所有である前記普通預金口座に入金していることが明らかであり、その三日後になされた被告人の原判示の前記所為は右預金と差し替えに原判示の通知預金を解約して自己の債務を弁済したという単なる銀行を介した資金運用の手続操作に過ぎないから、これまた業務上横領罪を構成するものでない。また、前記のとおり顧客口座は実質上北商所有のものであるから原判示罪となるべき事実第三中被告人が二六〇〇万円を同口座に入金したことも何ら業務上横領に該当せず、被告人には業務上横領の故意はないうえ被告人が二〇〇万円を個人的用途に充てたとの証拠は全くなく、さらに被告人は農林中央金庫の職員秋本健の勧誘を受けて原判示罪となるべき事実第四記載の通知預金を解約して北商のため割引農林債券を買つたに過ぎず、右債券が被告人の自宅に搬入されたのは被告人から右債券入りの封筒の保管を命じられた小林係長が独自の判断で昭和五五年一月中旬ころ被告人方に持参したためであつて、被告人の原判示の前記所為は何ら業務上横領ではなく、又不法領得の意思ないし業務上横領の犯意を窺わせる証拠はないにもかかわらず、原判決は、前記のとおり、被告人が捜査官の誘導に迎合して供述した結果、内容的にも西麻布ガーデンマンシヨンの二室の売却の動機について相互に矛盾し、本件普通預金口座及び本件顧客口座が主として被告人の個人的用途に利用されていたとして前記客観的事実と齟齬するなど全く信用できない被告人の捜査段階の供述に依拠して前記各事実を認定したのは判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認の誤りを犯すものである、というのである。

関係証拠によれば、原判示罪となるべき事実第二ないし第四記載の西麻布ガーデンマンシヨンの五〇五号室及び五〇四号室(以下単に部屋番号のみを記載する)は、北商の資金で購入され、北商の固定資産台帳に記載され、その権利証を小林係長が保管するなど北商の所有に属することの明らかな物であつたところ、被告人は、北商の了解をとることなく右両室を原判示のとおり昭和五三年一〇月四日ころ及び昭和五四年九月一四日ころそれぞれ売却し、五〇五号室の売却代金のうち、(1) 一〇〇〇万円は、その交付を受けた昭和五三年一〇月四日ころ東京相銀古川橋支店に自己名義の通知預金としたのち、同月三一日ころさきにロイヤル南麻布ガーデンマンシヨン四〇三号室(以下四〇三号室という)の購入代金四四五〇万円の一部に充てるため同支店から借り受けていた約三九四〇万円の債務の弁済の一部に充当したこと、(2) 二八〇〇万円は同年一二月一五日ころ受領し、うち二六〇〇万円をそのころ三洋証券大井支店の被告人名義の顧客口座に入金したのち約二二〇〇万円は東京電化株式会社の株式一万株購入の資金に充て、残りの約四〇〇万円は信用取引の保証金として同支店に預け入れ、前記二八〇〇万円のうちの二〇〇万円は、そのころ壬生順子の生活費、自分の洋服代等自己の個人的用途に充てていることが認められる。所論は東京相銀古川橋支店や三洋証券大井支店の被告人名義の右各口座はいずれも実質は北商のものであつた旨主張するので、まずこの点についてみると、関係証拠によれば、被告人は、昭和五一年一一月期の粉飾決算に絡んで北商に対し約一億七〇〇万円の国税還付金があつたことから、これを株式の売買等に運用しようと考え、早津経理部長の了解を得て北商の経理には前払費用科目として架空計上するにとどめ、一旦は国栄信用金庫本店の北商名義の普通預金口座に入金されていた右還付金のうち九四〇〇万円を昭和五二年五月三一日に払戻し、北商の口座のない東京相銀古川橋支店にうち四〇〇万円を入金して被告人名義の前記普通預金口座を開設し、同時に右支店に九〇〇〇万円を通知預金したのち同年七月までにこれを順次解約して右預金口座に入金したのを始め、同口座には被告人の株式売買益、株式の配当金等が入金され、同口座から三洋証券大井支店等に被告人の株式購入資金として送金されるなどしたほか、金額は明らかでないものの取引先へのリベート等にも支出され、また友人の事業への出資、壬生順子の生活費、被告人の洋服代などの純然たる被告人個人の使途にも優に二〇〇〇万円を越える支出がなされ、被告人は、これらの運用状況について北商役員や経理担当者(以下北商役員等という)に報告していなかつたことが認められる。以上の事実によれば、右口座が被告人個人名義で北商の口座のない東京相銀古川橋支店に新設されたものであることに加え、同口座には、被告人が北商のため保管すべき金員と被告人個人の金員が区別なく混在し、その使途も一部北商のための支出がみられるものの、純然たる被告人個人のための支出が大部分であつたのであつて、しかも被告人は、捜査段階において同口座は被告人個人のものであつたと述べていることも併せ考えると、同口座は被告人個人のものと認められる。次に関係証拠によれば、被告人は、昭和四九年四月ころ利殖のため三洋証券大井支店に四〇〇万円を保証金として入れ被告人個人名義の前記顧客口座を開設し、被告人独自の判断で主に信用取引を行い、昭和五二年ころから取引金額が増加したものの昭和五四年までで結局約二六〇〇万円の損失となつており、前記普通預金口座ができるまではこの口座で個人資金の運用も行い、同口座には北商からも入金されたことはあつたが、これらは、北商の資産の株式購入資金に充てられたり、被告人が手持金が不足していたとき社長仮払金の形で北商から一時借用しその後返済されたものに限られ、また、同口座から一部取引先へのリベート等の支出がなされたことが窺われるが、大部分は前同様純然たる被告人個人の用途のための支出であり、被告人が株式取引を行つていることを小林係長が事実上知つていたものの、被告人はこれらの取引について北商役員等に正式に報告等を行つていなかつたこと、同支店には昭和五〇年一二月に北商の仮払金約九九五万円で北商名義の顧客口座が開設されているが、同口座は年に一、二回投資信託のために使われる程度で、かつ同口座を使用するときは被告人が明確に係員にその旨指示していることが認められるから、以上のような被告人名義の顧客口座の運用状況に加え、被告が捜査段階において同口座は被告人個人のものである旨供述していることをも併せ考えると、同口座も被告人個人のものと認められる。所論は東京相銀古川橋支店及び三洋証券大井支店の前記各口座は専ら北商の取引先のリベート等に使用されていた旨主張し、確かに前記のとおり右両口座から若干のリベート等の支出がなされてはいるものの、仮に所論のように北商のリベート等の金額が年間三〇〇〇万円であつたとすれば、これをすべて同口座でまかなつていたと認めるに足りる証拠はないばかりか、早津迂の昭和五五年六月一六日付司法警察員面前調書によれば、北商の社長仮払金は昭和五三年一一月期で未清算金が繰越分と合計して約三二一六万円あり、うち同期の約一二二万円と昭和五一年一一月期の七〇〇万円とはリベートとして使用され、昭和五二年一一月期の約二三九四万円は野村証券吉祥寺支店の被告人名義の口座への入金等に費消されていたところ、被告人の指示で右未清算金を全てリベートということにして全額交際費に算入されたため昭和五三年一一月期の決算では社長仮払金の未清算分はなくなり、昭和五四年一一月期は社長仮払金がすべて清算されて未清算分はなかつたこと、社長貸付金は昭和五一年一一月期には前期からの繰越金が二五三五万円あり、昭和五二年四月には新たに使途不明の一〇〇〇万円の貸付けがあり、被告人が給料天引きで一部返済したので昭和五三年一一月には三一六九万円の残金となり、昭和五四年一一月には被告人が前記「和水」から借りた使途の明らかでない九一二〇万円を北商が肩替わりして新たに被告人に貸付けられていることが認められ、また関係証拠によれば、被告人は前記口座以外でも東京相互銀行仙川支店や野村証券等銀行や証券会社で預金や株式の取引を行つていることが認められ、以上の事実によれば、被告人は、東京相銀古川橋支店や三洋証券大井支店の前記口座等複数の口座を運用し、また適宜社長仮払金や社長貸付金をも活用してその中から所論のようなリベート等をも支出していたものと認められる。従つて、被告人は、東京相銀古川橋支店及び三洋証券大井支店の両口座のみで専らリベート等を支出していたとする所論は採用できない。もつとも、被告人は、北商所有の現金二六〇〇万円を被告人個人のものと認められる前記三洋証券大井支店の被告人個人名義の顧客口座に入金しているのであるが、同口座からは、被告人の用途のための支出が大部分であつたとはいえ、リベート等北商のための支出もなされていたのであるから、そのことで被告人の刑責が影響されるか否かが問題となるが、被告人は、同口座に北商所有の金員を被告人個人所有の金員と費消目的に応じて客観的に区別することなく混淆して預入れ、しかも被告人個人所有の金員と全く同様に専ら占有者たる被告人の意思によつて自由に処分することのできるような形態で自己の支配下に置き、必要に応じ自己のための用途や北商のための用途に費消していたのであるから、右二六〇〇万円を同口座に入金したときも、同金員を自己のための用途に充てるか北商のための用途に使用するかをいまだ決定しておらず、将来費消するときの事情に応じて使途を決定しようという浮動的な意思状態にあつたものと推認され、このような被告人の意思は少なくとも未必的には右金員を自己のために費消する意思であつたことに帰し、被告人が右二六〇〇万円を右口座に入金した際その全額について業務上横領罪の責を負うべき理は、原判示罪となるべき事実第一の事実について説示したところと同様である。また関係証拠ことに平秀裕の昭和五五年七月一〇日付司法警察員面前調書によれば、前記東京電化株式会社の株式一万株は昭和五四年一月ころ約一九九三万円で売却されたものの、その代金は再び右口座に入金されていることが認められ、二六〇〇万円入金後の状況をみても被告人の刑責を否定するような事情は窺われない。所論は、四〇三号室は被告人が北商のために購入したものである旨主張するが、関係証拠によれば、同室の購入契約書の買主、登記簿上の所有者の名義は北商とされていたものの、被告人は、同室を購入した前後において北商役員等に何ら報告しておらず、小林係長に権利証を預けることもなく、親密な関係にあつた壬生順子親子を住まわせ、昭和五三年一〇月二八日同室を他に売却したがこれも北商役員等に報告せず、従つて同室は固定資産台帳に登載されるなど北商の資産として扱われることが全くなかつたことが認められ、被告人は、四〇三号室について前記五〇四、五〇五号室と著しく異なつた処理をしたことが認められ、少なくとも北商の所有に属する物として扱つた形跡を窺うことはできない。そして四〇三号室の購入代金四四五〇万円についてみても、うち三四五〇万円は前記のとおり被告人が東京相銀古川橋支店から個人名で借り入れた資金が充てられ、うち一〇〇〇万円は前記普通預金口座から支払われ、その売却代金五〇二〇万円は同口座に順次入金されたことが認められ、この資金の運用状況に照らしても同室が北商の所有物であることは認められないのである。以上の事実に照らすと、被告人が捜査段階において四〇三号室は被告人個人の利殖のために購入したもので、契約書や登記簿で北商名義としたのは同室を売却した際その差益について被告人に所得税が課されるのを免れようとしたものである旨の供述は十分信用できる。従つて、四〇三号室は被告人個人の所有物であり、この購入のために東京相銀古川橋支店から借り受けた前記三九四〇万円は実質も被告人の債務と認められるから、右債務の返済のため、北商所有の一〇〇〇万円を費消した被告人の原判示罪となるべき事実第二の所為が業務上横領罪に該ることは明らかである。なお、四〇三号室の売却代金は前記のとおり東京相銀古川橋支店の被告人の普通預金口座に入金されているからその運用状況からしてその一部が北商のために使用される可能性があり、ひいては被告人が同室を買つた当初からその売却代金の一部を北商のために使用する意思があつたとみうる余地もあるが、もとよりそのことの故に被告人の右刑責が左右されるものではない。してみれば、原判示の挙示する関係証拠によれば原判示罪となるべき事実第二及び第三の各事実を優に肯認することができる。なお所論は前記のように四〇三号室の代金が東京相銀古川橋支店の被告人名義の口座へ右第二の犯行時期に接着して入金されたことに依拠して被告人の同事実の刑責を争うが、確かに、四〇三号室の代金で前記一〇〇〇万円分の被告人の債務を弁済しておれば何ら被告人が犯罪を犯したことにはならないとしても、そのことの故に現に北商所有の一〇〇〇万円で被告人個人の右債務の弁済を行つた被告人の刑責が否定されるものでないことも明らかであつて、この点の所論も採用できない。次に関係証拠によれば、被告人は、昭和五四年九月一四日ころ、交付を受けた五〇四号室の売却代金三六〇〇万円を一旦株式会社横浜銀行渋谷支店に自己名義の通知預金にしたのち、同年一〇月四日ころ、うち約三五八八万円を農林中央金庫本所で購入した額面金額合計三八〇〇万円の割引農林債券の代金に充て、残金約一一万円は遊ぶ金などに費消したこと、被告人は、同債券(一〇〇〇万円券三枚、一〇〇万円券八枚の計一一枚)の購入について北商役員等に全く報告せず、同債券は全て北商本店社長室の戸棚の中に入れて保管し、同年一一月二〇日友人が不動産を購入するため銀行から融資を受けるに当り、同債券のうち三二〇〇万円分を同人のため担保に提供し、同年一二月二九日同人の債務を北商に肩代りして弁済させて右担保に入れていた分の同債券を受け戻し、前記一一枚全部の同債券を持ち帰つて自宅二階の書斉に保管していたことが認められる。以上の事実によれば、同債券の購入状況、その後の管理、処分状況に照らし、被告人が捜査段階において被告人個人の利殖を図るために同債券を購入した旨供述しているところは十分信用できる。してみれば、原判示の挙示する関係証拠によれば、原判示罪となるべき事実第四の事実も優にこれを肯認することができ、仮に被告人が右債券の売却代金の一部を北商のため使用する気持があつたとしてもそのことの故に被告人の刑責が否定されるものでないことは既に述べたところと同様である。所論は、同債券が被告人方にあつたのは、小林係長が昭和五四年一二月二九日被告人から同債券の入つた封筒を渡され、それと知らずに昭和五五年一月中旬ころ被告人方へ届けたためである旨主張し、当審証人小林和光及び被告人は当審公判廷において所論に添う供述をしているが、所論によれば、被告人は小林係長に対し同債券のことを告げていなかつたというのであるから、かえつて被告人に同債券を北商役員等に内密にしておこうとの意思のあつたことが看取され、所論によつても被告人の刑責が左右されるとは考え難いばかりでなく、被告人らの右供述は捜査段階及び原審公判廷における供述と矛盾し、かつ主婦として応待に出るなどして所論のようなことがあれば容易に知りえた蓋然性の高い被告人の妻中村百合子は捜査段階以降この点について全く言及しておらず、かえつて同女は被告人の逃走後自宅内を探索するまで同債券の所在を全く知らなかつたことが認められることからしても被告人らの前記供述は信用できない。

その余の所論は、不正確な証拠の評価に基づくものなどであつて、これらを遂一検討してみても、原判決に所論のような事実誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。第二量刑不当の主張について

論旨は要するに、(1) 原判決罪となるべき事実第一の犯行については、被告人は、援助条件の緩和等を三菱商事に再考を求めるような方法では解決できない切迫した極限状態の下で、前記のとおり北商の再建、存続のための最善の方法と考え、北商幹部となしたその旨の決定に従つて本件犯行に及んだものであつて、その動機に酌むべき点があること、被告人の犯行は北商の財産を保全するという右決定に従つてなされたものであつて、何ら社長の権限を濫用したものでないばかりか、原判示のように計画的かつ大胆と非難されるようなものではないこと、北商の倒産は、三菱商事とともに主たる債権者であつた北海道漁業協同組合連合会が北商の再建に協力する姿勢を示さなかつたことによるものであつて、被告人の本件犯行とは何ら関係がないこと、被告人が欧州滞在中に本件金員から費消した三六〇〇万円中の二五〇〇万円もが北商関係者との電話連絡費であつたことからも窺われるように、被告人は、本件金員を私的に費消しようとの意思を殆ど有しておらず、被告人が北商関係者に送つた書簡の内容は北商を事実上倒産させようとしている三菱商事に対抗する措置として本件犯行を行つた被告人の真情が吐露されたものであり、前記のとおり被告人は本件金員の殆どを自発的に北商の破産管財人に返還しており、その返還が遅れたのも北商の債権者の利益になるよう三菱商事に対する交渉材料として本件金員を返還することを利用したために過ぎず、右金員の返還は被告人が改悛の情を示したものとして十分考慮すべきであること、(2) 原判決罪となるべき事実第二ないし第四の各犯行については、前記のとおり被告人名義の本件普通預金口座や本件顧客口座を用いて株式の売買等を行い、その利益で北商の取引先に対するリベート等に充てるといつた公私混淆の譏りを免れない経理処理も、個人商店から発展してきた北商の営業実態からみて必要やむを得ない措置であつたのであつて、原判示罪となるべき事実第二及び第三の各犯行に先立ち本件預金口座には四〇三号室の売却代金がその都度一〇〇〇万円及び四〇二〇万円づつ入金されていて、被告人の横領金額は右入金額と同額の一〇〇〇万円及び入金額を著しく下廻る二六〇〇万円にとどまつており、同第四の犯行も前記のとおり農林中央金庫の職員に勧誘されて行つたものに過ぎず、いずれも違法性の乏しい犯行であること、(3) 本件については北商の破産管財人との間で原判示の示談が成立し、被告人は、原判決後も誠実にその履行を続けているうえ、同人に協力して北商の売掛金の回収に努力していること、被告人は、これまで前科もなく、本件によつて個人的資産をすべて失い、本件に関する報道等を通じて精神的にも打撃を受けるなど社会的制裁を受け、本件について深く反省していることなどの諸事情に照らすと、被告人を懲役三年に処した原判決の量刑は重過ぎて不当であり、その刑の執行を猶予すべきである、というのである。

しかしながら、原審記録を調査し当審における事実取調の結果をも併せ検討すると、原判示罪となるべき事実第一の犯行は、中村驥が主導する先物取引等の思惑的商法の失敗から昭和五一年以降毎年多額の欠損を生じ昭和五三年一一月期にはその累積額が約二二億五〇〇〇万円に達し、昭和五四年の数の子商戦も失敗して同年末には販売見込のたたない数の子約一四七〇トンなど多量のコストの高い在庫を抱え経営が危機的状況に陥り、救済を求めた三菱商事の國武課長から、援助はするものの、北商において八〇ないし九〇億円の評価損を被ることになること、翌年初めから三菱商事より社員を派遣して北商の経理の監査を行うことなど北商にとつて厳しい再建案を提示された被告人が、北商経営の意欲を失い、三菱商事から社員が派遣されて来るまでの間に北商からできるだけ多額の資金を持ち出し、少なくともその一部は自己や第三者のためにのみ使用し、その余はその後の事態の推移に応じて自己又は北商のために使おうとの意図の下に銀行への年末協力預金と装つて北商の経理担当者をして北商振出の額面金額合計一五億円の小切手一一通を作成させてこれを一旦自己名義に通知預金としたあと密かに引き出し、予め知人を通じ用意したレンタカーを使つて白昼これを運搬し、母や親密な関係にあつた女性二人にその隠匿保管を依頼し、それ以前に他の年末協力預金用資金として北商経理担当者から交付されていた四〇〇〇万円を併わせた合計一五億四〇〇〇万円のうち北商の債務の返済に充てた二〇〇〇万円を除いた一五億二〇〇〇万円を北商の経理出納権限を有する代表取締役として業務上預り保管中自己の用途に充てるため着服して横領したという事案で、被告人は、代表取締役社長の地位にありながら適切な指導力を発揮することができず、専務取締役の中村驥の思惑的商法を追認して北商の経営危機を招いたばかりでなく、社員約九五名、年商一〇〇〇億円を越える水産業界の中堅企業であつた北商の代表取締役として社会的、経済的にも影響の甚大な北商の倒産を防止するため三菱商事と援助条件を少しでも有利になるよう交渉するなど北商の先頭に立つて局面の打開を図るべき責務を負つていながら、他に取るべき方策を検討することもなく、自己本位に安易に本件犯行に及んだものであること、本件被害金額は現金での一五億二〇〇〇万円という他に類例をあまり見ない程の高額であり、しかも被告人がオーナー社長としての絶対的な権限を濫用してこれを入手した手口は計画的、緻密、巧妙で大胆なものであること、被告人自身で右金額から約三六〇〇万円を渡欧滞在費用に費消していること、代表取締役社長である被告人が経営の危殆に瀕している北商から右のような高額の現金を隠匿し、自らは渡欧してその所在を暗ましたことが北商倒産の一因となつたことは否定できず、右倒産に伴い子会社二社も関連倒産するなど、本件が社員、債権者等の北商関係者はもとより水産業界や社会に与えた影響も看過しえないこと、原判示罪となるべき事実第二ないし第四の各犯行は、北商が被告人の個人商店から発展した同族会社であつて、被告人もオーナー意識が強く、北商の資金と被告人個人の資金とを一部混淆したまま、独自に株式、不動産の売買等を行い、その一部を取引会社へのリベート等北商のために使用したり、被告人自身のために使用するなどしていて、これに対して北商の経理監査が十分行われない状態であつたところ、被告人は、北商所有のマンシヨン二室の売却代金合計七四〇〇万円を自己の債務の弁済や割引農林債券の購入代金に充てるなどいずれも自己の個人的用途に充てるため着服するなどして業務上横領したという事案で、被告人は、これら犯行の背景となつた公私混淆や杜撰な経理状態を是正すべき最高責任者の地位にありながら、かえつてこれを利用して本件各犯行に及んでいること、被害金額も高額に達していることなどの諸事情に照らすと、被告人の刑責は重大であるといわなければならないから、原判示罪となるべき事実第一の犯行については、被告人は、個人商店を始めてから順調に企業家として歩んできたところ、堅実な商法を望む自己の意向を押し切つて思惑的商法を主唱し続けて結局前記のような北商の経営危機を招いた中村驥のいわば尻拭いをすべき立場に突然立たされるに至つて同人に対する不満の念も高まつて冷静さを失い、またジヨイント契約を締結するなど次第に親密さを深めていた三菱商事から被告人が期待したような好条件の援助案が示されず、三菱商事に裏切られたとして挫折感を抱いたことも手伝つて本件犯行に及んだものとみられ、しかも、被告人は本件一五億二〇〇〇万円全額を必ずしも被告人のためにのみ費消するとの確定的意思を有しておらず、事態の推移によつては北商への返還も考えないではなかつたなど北商への愛着も失つていなかつたのであつて、その動機に酌むべき点がないでもないこと、本件被害総額一五億九四〇〇万円については、うち約一五億四六八四万円が破産財団に返還されさらに被告人は自己の土地建物を処分するなどして約三〇四七万円を支払い、原審段階において北商破産管財人との間に示談が成立し、被告人は、同示談に付された割賦弁済条件を遵守して原判決後もその履行を続け、昭和五六年一一月末日現在合計一八〇万円と六八一七米ドル(一四六万七七〇〇円)を新たに支払つていること、被告人は、これまで何ら前科、前歴を有せず、北商社長として水産業界を通じ社会に対し貢献もしてきたこと、被告人は、本件について反省の情を示し、破産管財人に協力して北商の売掛金の回収に努めるなどし、また本件でその全ての個人的資産を失い、既に相当の社会的制裁を受けていることなどの諸事情を被告人のため十分斟酌するとしても、もとより被告人の刑の執行を猶予すべき事案ではなく、被告人を懲役三年(求刑懲役六年)に処した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 千葉和郎 裁判官 香城敏麿 裁判官 植村立郎)

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